佐保田先生の思い出

佐保田先生はご自身でもアーサナを真摯に実践なさいました。

例えば、とても難しいアーサナはおできになられますが、若い人がする筋肉を使うアーサナが出来ないと、何回でも出来る迄実践なさるのです。
孔雀のポーズ(マユーラ・アーサナ)を何十回、転んでも練習なさるのです。御年八十歳越えておいでですから、転んで肩の骨でも折れたら困る
ので皆が見ていて止めるのです。
「先生、もうそれくらいでいいでしょう!」と。
それでも先生は挑戦なさいました。微笑ましくて楽しい光景が浮かんできます。真にご尊敬でした。

何にもまして、佐保田先生は知識の大哲学者でしたが、智慧があり、慈悲に満ちて愛があり、平和で穏やかであられました。お傍に居るだけでもう、もう何もいらないと思うほど幸せを感じました。
自分が愛されていることを感じ、受け入れられているとの歓びを感じました。

ありえない話ですが、仮に佐保田先生が「岡さん、死んでください!」と、申してくださるならば、「はい!」と直ぐにでも死ねます。殉教できます!今でもそれくらい信頼し、愛と感謝をもって尊敬しています。

先生は口先だけの人ではありませんでした。真のグル、霊的道師で聖者でした。その行いの正しいこと、慈悲深いこと。
お傍にいても、先生からかもし出されます波動に包まれて、なんともいえない穏やかな雰囲気で周りの人々を幸せな気分にして下さいました。
まるで観自在菩薩様でした。
先生はいつも「人間のなかに真我という神様が存在しています」と申されていました。

ある日のことでした。
ヨーガの指導が終わった夕暮れ時、早く帰りたい気持ちを抑え、私はいつもトイレをせっせと磨き洗うのです。
ホースの水で床のタイルを夢中で洗っていました。
下を向いていると、トイレの入り口に二つのきちんと揃った足が見えましたので顔を上げて見ますと、佐保田先生が山高帽子を胸に当てて私に合掌して何かお祈りしてくださって居ました。

きっと、「私のなかの真我である神様」にお祈りしてくださいましたのでしょう。その時のお姿がありありと目に浮かんできます。私には涙するほどの歓びです。

全ての人間、一人一人のなかに存在する神様を拝んでおられる!なんて崇高な御姿でしょうか。これこそ真の実践者の姿です。
ところが私達はなかなか、そこまでいきません。人を差別したり、気に入らない人にはそっけなく、自分に都合のよい人には気を許します。
なんとはかないことでしょう。

他には、こんな思い出があります。
西教寺での合宿の時でした。
お昼はサンドイッチを皆さんと食堂で食べておりました。
幸い佐保田先生のお隣の席に座っていた私に、先生が
「岡さん、ティッシュペーパーお持ちですか?」と申されました。
サンドイッチを残されたのです。
先生は自分の食べ残した分をティッシュペーパーに包まれて、庭から門外まで出て行かれますので私もついていきますと、
先生は犬にサンドイッチをあげていました。そして犬にも合掌して拝まれました。

そのお姿を見て、私は深い感動を覚えました。
そういえば、後にインドでダライラマ法王様の灌頂を授かった時、
ダライラマ法王が一番先に子犬を抱いている僧のほうに行かれ灌頂を犬に一番先に授けられました。

なんと微笑ましい、と申し上げるより、如何に法王は拘らわれのない寛大な慈悲の大法王なのでしょう、と感銘いたしました。
このように,真の聖者方は皆、平等智をそなえ、慈悲と寛容のお手本を見せて下さいます。

「先生!悟っている方をどのようにして見分けたらよいですか?」
ある日私は、佐保田先生にお伺いしてみました。
「それはね、その人の行為を見たら解かります。」
と申されました。
仏陀も曰く、カースト制度、氏素性の差別について、
「生まれによって卑しいのではない、行いによって卑しいのである」と語りました。
私達も意識して責任ある大人の態度と、人格大に磨きたくヨーガの修行に勤しみたいものです。

恩師・佐保田先生から学んだことを私は宝物としています。
それは知識や哲学だけでなく、その御教えをどのように実践するかです。

その頃、後に話題となる宗教団体より、「関西で一番のアチャーリヤにしてあげるから」と誘いを受けましたが、
「私には、佐保田鶴治先生という最高のグルがおられます!」
ときっぱりその場でお断りできました。
人は名誉欲を捨てていますと、こんな誘惑にも微塵も心が動きません。
「人間の煩悩のなかで、この名誉欲程大きな煩悩は他ありません」
と佐保田先生はいつも申されていました。

・・・次へ続く